金井南龍紹介文のまとめ

 

  

金井南龍 かない・なんりゅう

 金井南龍は、1917(大正6)年、群馬県甘楽郡福島町星田(現富岡市星田)に生まれた。本名を三吉という。

金井家は、江戸時代に『先代旧事本紀大成経』発禁事件で流罪となった黄檗宗の僧、潮音を保護した家だったという。

 幼少期より、神霊と交流し神秘な現象を日常的に体験したという。

実業界で一時活躍するが、創立した会社を人に譲り、50年代半ばから全国の山野を跋渉し、「滝の行者」の異名をとった。

以後滝行の指導を通じて人材を養成し、70(昭和45)年、神理研究会を組織した。機関誌「さすら」は現在も発行されている。

 南龍は、神道だけではなく、易、四柱推命にも通暁し、古代史や文学にも明るかった。中でも絵画はとくに好きだった。

絵画制作も手がけ、五十代から精力的に描き始めた。自分が訪れた聖地を描き、五十三次にしたかったという。

残された油彩画は十数点に過ぎないがいずれも特異なものである。86年には文藝春秋画廊で個展を開催している。89(平成元)年没。

 

「スサノヲの到来」読売新聞社 2014
(展覧会図録)

 

 


 

 

金井南龍(1917-89年)は、幼少の頃より神秘的な体験をしている。

1960年頃より同志をつのって滝行などを指導し、70年、神理研究会を組織、機関誌「さすら」を発行した。

南龍はククリヒメなど埋没した神の復権を提唱した。南龍によればククリヒメは、非農耕民の白山王朝が信奉していた神であり、天孫族により滅ぼされ封印されてしまったという。

南龍はククリヒメをアマテラスより格の高い神と見なし、白山神界を明らかにしようとした。その過程でイザナミも再発見されていく。

イザナミは黄泉の国に黒髪大神として押し込まれているとし、やはり、アマテラスより格の高い神として位置付けられている。

 南龍は、神道のみならず易、四柱推命にも通暁し、古代史や文学にも明るかった。

絵画も好きであり、ゴッホの絶筆、《カラスのいる麦畑》のなかに霊的なカラス(おカラスさん)が描かれていると指摘している。

南龍自身、絵画制作を手がけ、五十代から精力的に描き始めた。自分の訪れた聖地を描いて五十三次にしようとしたという。

残された油彩画は10点ほどにすぎないが、いずれも他に類例を見ない独自性に富み、不思議な実感を伴って見る者を魅了する。それは彼自身が感得した神の世界なのである。

《妣の国》(cat.no.7-7)はその第一作にあたる。黄泉の国に神避ったイザナミを幕いイザナギと子のアマテラス、ツクヨミ、スサノヲがその名を呼んでいる。

イザナミの応答は、山の彼方に異様な光として現れる。それは彼らのこだまかもしれない。赤いズボンをはいた、いたいけなスサノヲの姿と相まって何とも切ない作品である。

 
「スサノヲの到来」 江尻潔 読売新聞社 2014(展覧会図録)

 

 


 

 

 金井南龍(かないなんりゅう)

 座談会の主役。大正6年群馬県に生まれる。幼少より奇々怪々な神秘現象を日常的に体験、特異な霊能を発揮したという。

戦後一時は実業界で活躍、異常なまでの商才を発揮したこともあるが、昭和30年頃から全国の山野を跋渉(ばっしょう)、「行(ぎょう)」を積み、「滝の行者」の異名をとる。

昭和35年頃より同志を集め、滝行などの指導を通じて、神と繋がる人材の養成に当たる。昭和45年、神理研究会を組織、同会機関誌『さすら』は現在、114号を数えるに至る。

 易学、四柱推命学にも通暁。また古代史、文学、絵画など博学多才で知られ、蔵書は三万冊を超える。

神道家といった堅苦しいイメージはなく好々爺然としているが、ひとたび神と対するとなると一点の妥協もなく、またその知行一体の霊力ゆえに、多くの宗教関係者には畏怖の念をもって遇されている。

学者、知識人、芸術家に支持者、シンパが多く、日本神道の未来を切り開きつつある数少ない神道家の一人である。

 

「神々の黙示録」まえがき 

 

 


 

 

 私と金井南龍先生の出会いは、四年前、『地球ロマン』誌(絃映社)で「神字学大全」と題し、神代文字と言霊学の特集を試みた時に遡る。

ともかく、当時からこの業界?では、『さすら』誌と言えば有名であったが、同時にその主宰者の金井南龍といえば、ウルサ型でとっつきが悪いという噂で、何人もの人間が門前払いを食わされたと聞いていたので、おっかなびっくりのおよび腰で訪ねたところ、案の定、最初なにか、さかしらを申し上げたためか、やにわにドナられた記憶があるが、今考えるに、それはどうも金井先生のおタメシであったらしい。

 まもなく、本当は心優しい人物であることがわかったが、どういうわけかそれ以来、たいへん目をかけていただき、神道学から古代史の問題に到るまで様々なご教示を下さったり、なにか珍しい資料があるとわざわざ私のためにコピーをとって製本しておいて下さったり、さらには『さすら』誌上では友清歓真と比べられたり恐縮の限りである。

 また、金井先生の紹介で、笠井先生、米津先生、筑糸先生にもふだんからご指導を賜わり、昵懇にしていただいている。

 

「神々の黙示録」あとがき 武田洋一 

 

 


 

 

金井南龍 Nanryu KANAI 

理研究会を主宰する現代きっての博覧強記の神人学者。自宅はさながら古代図書館の趣きがある。

もちろん神界の意を解することも造作ない。白山神界の菊理姫を救出したことは知る人ぞ知るところだ。

現在、世界神界のヒエラルキーを叙述するべく奮闘中である。毎月、「さすらの会」、「易の講習会」も開いている。

 

「遊学大全・極本」 工作舎 1980

 

 


 

 

金井南龍(かない・なんりゅう)

 1917年群馬県に生る。金井家は大成経事件で流罪となった潮音を保護した名家であるといわれ、この道との縁は浅からぬものがある。

幼少の頃より山霊との交渉深く、長じては山岳を抖藪し、「滝の行者」の異名をとる。易学、四柱推命にも通暁。

1960年より神道専門誌『さすら』を発行、すでに110号を数える。神理研究会主宰。

 

「迷宮」2号 白馬書房 1979

 

 


 

 

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金井南龍

『さすら』を編集兼発行する神理研究会主宰者。洒脱、豪快、奔放自在の遊人

 

「遊」1007号 工作舎 1979

 

 


 

 

 さすら  金井南龍 編 

 戦後体制に埋没した古神道の精神を甦らせる

 

 金井南龍主宰の「神理研究会」の機関誌。昭和45年12月創刊。

「神理研究会」は、幼少のころから霊能力をもち、修験道系の行者として修行を積んだといわれ、易占家でもあった金井によって結成された神霊一般に関する個人的な研究団体。

金井の内部には、神社神道や既成の宗教団体の枠内にはおさまりきれない霊的衝動があり、それを究明すべく同志を糾合するに至ったものと推測される。

 創刊時の本誌には、そういった金井の志向を反映してか、鎮魂帰神・審神(さにわ)・滝行などの記録が多くみられる。

しかし、このような行的側面は実践としては継続されたものの、誌面は文献的な神霊研究に重心が移され、中村孝道(なかむらこうどう)・大石凝真素美(おおいしごりますみ)・矢野祐太郎(やのゆうたろう)といった、当時は秘密のベールにつつまれていた霊学家たちの原典紹介で埋めつくされるようになる。

 また、『先代旧事本紀大成経』を紹介し、天津金木・神代文字・布斗麻邇(ふとまに)に関する研究論文を頻繁に掲載するなど、とくに昭和40年代後半から50年代にかけての本誌は、戦後体制の中で忘れられていた古神道のさまざまなアイテムを発掘し、今日にもつながる成果を残すことになったのである。

 

古神道の本」学研 1994

 

 


 

 

戦後を代表する古神道家の一人である金井南龍も独特の一霊四魂観を提唱した。

彼は一霊四魂を入れ子構造として説明する。

各霊魂はそれぞれの中に一霊四魂を備え、その個々の一霊四魂の中にも、また一霊四魂が含まれるという構造である。

これによって金井は森羅万象の一切の産霊(むすび)の構造とヒエラルキーが明らかになるとするのである。

 
古神道の本」学研 1994

 

  


 

 

下刷段階で急遽、タントラ的強さを絵画に秘めた金井南龍氏の『昇り龍 降り龍』の出品が決定した。

ルドルフ・シュタイナーなどが我が国で一般に紹介され始める60~70年代のサブカルチャー世代に強い影響力を与えた南龍氏は、弥生神道(=皇家神道)によって「封印され地の底に押し込められた」日本原住民の産土神を、縄文神道の復興でもって復活させ霊的復興を成し遂げなければならないとした。

これは、大本教の“退隠させられた神々”という概念と類似性を持ってはいるが、南龍氏の縄文期に焦点を合わせた理念は、大本教とは別系統の霊的衝動性を持つ。

そして、白山の菊理姫の再降により弥生神道はその虚偽性を暴露され神界の変革が完了するのだという。

彼は日本神理研究会を主宰し最後まで禊の行を続けた古神道の行者であった。

 

能勢伊勢雄「何かに導かれた龍展 」
「龍の国 尾道」2000(展覧会図録)

 

 


 

 

金井南龍(かないなんりゅう)

大正6-平成元(1917-1989)群馬県に生まれる。本名三吉。昭和36年ごろより宗教活動を始める。

「他人の見つけた神を信仰することは親不孝である。宗教は一人一宗の自由宗教であらねばならない。」という信念を掲げた。

「富士神行」のため全国の霊山、霊場を巡る。

45年に月刊『さすら』誌を創刊する。同年、神理研究会を設立。

著書に『夢の垂直判断』、『ネオ神道主義の一断面・金井南龍インタビュー』、『神々の黙示録』(共著)、『インタビュー・職業を通して高天原へ』がある。

 

「龍の国 尾道」2000(展覧会図録)

 

 


 


細野 僕にとって、いちばんドン・ファンに近い人っていうのは、金井南龍っていう修験をやっていた人です。治療師なんですけど、指圧を基本に自分で研究してたら、古代の蘇生術を発見した。「タマルガエシ」っていうすごくいい名前なんですけど。

吉本 ええっ。すごいですね。

細野 それを僕、やってもらったんですよ。YMOをやってるころで、ヘトヘトだったの。知人の紹介でそのお家に行ったら、けっこうその先生のファンがいて、元気のない人が集まって治療をされてるんですが、ふつうの指圧みたいに寝かされて、背骨を指で軽く押されていくんですけど、全部音がするんですよ、ポンポンポンと。なんでそんな音がするんだろうね。

吉本 なんででしょうね。

細野 わかからない(笑)。背骨が鳴るんですよ。関節が全部。

吉本 ふーん。それもすごく強い力じゃないですよね。

細野 いや、軽く叩いていくの。そのあと、そういう経験がないのでわかんないんですけどね。その金井さんって人はもう亡くなっちゃった。継ぐ人がいないんですよ。

吉本 それって、継げるものなんですかねえ。

細野 やっぱり継げないみたいですね。息子さんがいるけど、やってるって話は聞いてないし。治療してもらいながらその人の話を聞いてあげるのがこっちの役割だから、もう、とんでもない話を聞いてあげるんです。妙義山から天狗が出てきたとか、その天狗はスカンジナビアから飛んで来たんだとか。

吉本 どうしたらいいんでしょう!

細野 もう、わかんなくて(笑)。でも、そんなに変な人じゃないし、ちゃんとしてる人だったんで、聞いてあげてたんですけども。物の見方が面白くて、人間を菊の弁の数で勘定するんですよ。女性を品定めするときに、「あの女は八合目だ」とかね(笑)。

吉本 わからない! 誰にもわからない(笑)。

細野 わからないでしょ(笑)。どうも、八合目というのは人を山にたとえて、十合目っていうのがてっぺんだと。

吉本 じゃあ、八は結構いいセンいってるってことなんでしょうね。翻訳すると(笑)。

細野 そう、いいセンいってるってことです。女性はやはり女性の力があるわけで、それを言ってるみたい。

吉本 ふむ。

細野 女性の力として「何合目だ」とか。ヨガではシャクティっていう言葉があったけど、そういう女性力。だから、きっとばななさんも八合目ぐらいかな(笑)。

吉本 四合目ぐらい。よくわからないけど(笑)。

細野 そんな人がいました。影響されましたね。

 

対談「ドン・ファンに導かれて」
細野晴臣吉本ばなな
(「サルタヒコの旅」 創元社 2001)

 

 


 

 

それから、去年の暮に金井南龍にさそわれて「Y・M・O」のコンサートに行ったかな。あれは異常やった。

■えっ、「Y・M・O」がですか。

▲いや、あんた、あのガキばっかのところへやで、真ん中の招待席は金井南龍様御一行や。あれは、なかなかの取り合わせやったで。

国吉さんちゅう、金井さんところにいちばん古くからいるオバァちゃんもいっしょやったんやが、この人なんか、なんちゅーの、モンペみたいなものをはいてはりましてな、たいへんにナウかった。

 

「迷宮」編集長・武田洋一インタビュー
「HEAVEN(ヘヴン)」第9号
群雄社 1981年3月

 

 


 

 

第12回東京展 

「妙義蜃気楼」金井南龍

 

金井南龍氏の濁りなき心象と自由な発想、そして甘美な色彩感覚は、常に清冽なるイメージを生み、観るものの心眼にしっとり溶けこみ、知らず知らずのうちにメルヘンの世界に誘う。限りなく広がる夢とロマンの世界を構築する氏の意欲的な制作活動に益々期待したい。

 

産経新聞「紙上ギャラリー」
(昭和61年10月7日夕刊)
1986

 

 


 

 

第12回東京展 

「つくば」金井南龍

 

自由な発想と鮮麗な色彩で画布に展開する金井南龍氏の芸術の世界。緑したたる草木や、澄みきった空気の中で自由気儘に動物達が走る・跳ぶ・舞う。

そこには、既成のイマジネーションを超越したパラダイスがある…氏の豊穣なる感性と全人格を投入して創造された小気味よいドラマがある。

氏の一連した作品は、殺伐とした現代に住む人々に、心のオアシスを与えずにはおくまい。観るほどに、心洗われる作品である。氏の織りなすロマンの世界、次回作も期待したい。(東京都品川区在住画家)

 

産経新聞「紙上ギャラリー」
(昭和61年10月30日夕刊)
1986