金井南龍「ゴンの神には菊座がない」

金井 自分の親神を見つけ、ミコトモチを知るというと、一人一宗でもかまわない、個に徹して全体につながるというわけだ。「さすらの会」もね、やがてレベルアップして「あさどの会」にしたいと思っているが、それは人種の如何を問わずに、個人完成した者が集った地球一国家そのものの青写真となるだろう。

その場合、必要になってくるのは「世界宗教概論」だ。僕は今、これを構築する必然性を痛切に感じている。もちろん宗教学概論や比較宗教学じゃダメ、神様ヒエラルヒアを軸にして、統合的な認識を可能にするものじゃないとね。

―――「さすら」誌でブラヴァツキーの把握した神がゴンの神であるとお書きになってますね、そのゴンの神というのは何なのか……そのあたりから先生のよくおっしゃっている直霊(コン)・和魂(ゴン)・幸魂(ハク)・奇魂(スイ)・荒魂(ダラニ)の五段階ヒエラルヒアについて述べていただけますか?

金井 結局、和魂(ゴン)の神というのは、つなぎの神様なんだ。直霊(コン)でなくっちゃ、本当の神とはいえないんだけれどね。

今、人間というものを考えてみると、これは、肉体と、神のワケミタマである魂から成り立っている。肉体を統轄するのが幸魂(ハク)=精神でね、今の学問、サイエンスというのはこのハクどまりだ。スイは生命、ダラニは身体の次元だ。神界はコンなんだね。

ところで、人間において、何がコンと、ハク以下の肉体を管掌するものとを結びつけているか、これは今のハクどまりのサイエンス次元では不可知だろう。実は、それこそがゴンの、ムスビの働きなんだ。

これはさすがに天皇家も隠蔽し切れなくて書紀にこの神の名を残さざるを得なかった、白山菊理姫の働きなんだ。宇宙が分裂せずにいるのも、地球が正しく回転しているのも、日本列島がフォッサマグナでブチ切れて海中に没し去らずに済んでいるのも、菊理姫のゴンによるものなのだ。

―――と、菊理姫はゴンの神様なんですか?

金井 いやいやとんでもない。菊理姫は本当の神、コンの神ですよ。菊理姫の働きがゴン、 …… 。

ゴンの神という具体的なイメージを示すとすれば、西洋でいうフェアリー、日本の天狗などだ。もっとも、フェアリーは西洋だけ、天狗は日本だけにしかいないということはない。日光の奥の古峯ケ原には、外国から飛んで来た天狗がウヨウヨいるよ。天狗が見えるメガネを作ってね、連れて行ってやりたいぐらいだ。


     ◇


―――コンの神には菊座があるが、ゴンの天狗にはそれがない……人間はどうなんですか?

金井 人間には、コン・ゴン・ハク・スイ・ダラニの五弁の菊座がある。これは神と共に生きるチャンスを与えられている、ということなのだ。だから天狗たちも、五弁の菊座に乗っている人間を、神についで尊敬しているんだ。つまり、人間というのはヒエラルヒアを確認するしないで、天狗以上にもなれるし、天狗以下にもなるわけだ。まぁ、天狗以下のものがほとんどだがね。

 そして、人間が死んで五〇日経つと、魔王界では神のワケミタマであるこの魂の菊座をくりぬいて、料理して食べとるんだ。菊座を食べてしまえば、魂の外殻である魄(ハク)やエクトプラズムというようなものは魔王界では不要なんでね、生きていた時の潜在意識付きで、霊界へ廃棄処分にするわけだ。

―――魄(ハク)と先程のハクは同じではないのでしょう?

金井 ハクは魄に通ずるものではあるさ。ハクは思想・精神・意識・ロゴス・サイエンスといった観念を引き出す。この働きで生じたのが魄(ハク)というわけだ。いわば魂という豊饒な核のイコンだね。しょせん人間界での製造品――偶像なんだから、神のワケミタマ、魂のイミテーションという限界は越えられないわね。魄(ハク)をいくら探究したって、神界には到達せんよ。

それで話をもどすとさ、霊界、幽界、冥界、なんと言ってもよいが、東京都の夢の島みたいなもんで、要はゴミ捨場なんだ。このゴミ捨場からハエのようにブンブン飛び立っているのが、菊座なき神仙やヨガ界の住人だ。

霊能者がいくら浄霊――なかにはそれを秘教だの秘儀だのと言ってるバカがいるがね、とんでもないわ。そんなものいくら試みたところで、霊界に行っちまった者に菊座は永久にもどらないんだ。肝心要の魂の中枢が魔王界で食糧になって、糞尿化された霊達に再生や転世は金輪際ない! まぁ、こんなことはね、宗教団体つくるんだったら言えんわな。

―――そう、祈ると救われる、来世が約束されている、というふうに言わなくちゃダメですよ(笑)

金井 しかし、僕の言うことは事実なんだから、しょうがないよなぁ。親鸞のように救えなければダメだ、なんていうのは神理無視、アニマル人間勝手の詐偽教だ。ほとんどの人間は霊界送りだもんな。

ただし、生きてるうちにアンダーゴッドの垂直思考を駆使してさ、神からもらったワケミタマを自覚してね、しめり気を与え、芽を出して生長し、花を咲かせて実って光芒燦然と輝いとるのは、魔王界にとっては毒物中の毒、まさに劇薬で食用にはならんのだ。この場合は肉体の衣を魔王に帰して一路、神界の高天原目指して昇天して行くんだ。

また、シメリ気があって芽を出しかけとるのや、ツボミくらいは持っているのは阿弥陀(カサラギ)主宰の仏界入りとなる。

仏界からはね、三六本の助け綱が下ってるんだよ。だけど乾き切っている人間にはそれが見えないんだわ。特に日本人の亡者はさ、死後五〇日間、飲めや歌えの大騒ぎをしておって、透明な綱にすがりつく者はほとんどないようだ。仏界へ行ってさ、修行して卒業すれば、神界送りで永久生命をもつ高天原の住人になれるのにな。


     ◇


―――最後になりますが、最近若い人の間で神道に興味を持つ人が増えているようです。そういう人達に対する何かアドバイスがございましたら……

金井 まぁボチボチだね。一気には出来ないだろうね。ひとつは知識――といっても永遠のほうにつながる知識を磨くってことだね。目ある者は見よといってもさ、まだ眼鏡が作れないんだから、知恵ある者が考えるということも必要だ。

それから〈行〉の問題だが、滝に打たれるというのは方法論なんだ。学問だって禊(ミソギ)だし、全学連が棒ふりあって内ゲバやってる、あれだって命がけの禊だよ。ホント、あれで生き残るのは大変だと思うわ。結局、禊というのは、何かに向かう時にさ、古いアカを落して、向かいよいようにするということなんだよね。

ただ、禊(ミソギ)が本物になるには「狹霧(サギリ)」が必要だ。狹霧が神の光に当たれば虹になる、それを虹の懸橋といってね、その虹の懸橋を渡って入れ、とイエスは言っている。

 

 

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「金井南龍インタヴュー」(『迷宮』第二号、1979年)より。