金井南龍「ワケミタマとは何か」

武田 なるほど、神には必ず菊座というものがある。そして、一合目から一〇合目までのランクがあるわけですね。

金井 ええ、神のランクというのは一分一厘のまちがいもなくあります。神界の秩序を維持するために厳しいですよ。

武田 菊座の弁の数は、ランクによってちがうんですか?
金井 そう、ランクによってちがう。一〇弁のものも、一六弁のものも、二〇弁のものもありますが、 必ず六弁以上の菊座を持っています。

武田 五弁以下の神はない?
金井 それがね、人間は必ず五弁の菊座を持っているんですよ。もちろん、ふつうの人には見えませんが、見える人には見えるわけで、これは肌の色や人種、血統にはまったく関係なく、誰でも五弁の菊座を持っているという点においては、人は生まれながらにして平等なんです。

 天皇陛下……私は近衛連隊におりましたから、今上天皇の菊座を拝し奉る機会があった。やはり五弁です。現人神なんてのは、だから虚構なんです。あとで他の行者で、やはり菊座を見られるのがいたんで確認したら、やっばり陛下も五弁だと言ってました。

 この人間の菊座というのは、高天原の親神からいただいたもので、私たちはワケミタマ(分身魂)と呼んでいます。だから弁の数からゆくと、みんな平等なんだが、親神はそれぞれちがうわけなんでね、その意味じゃ平等ではないんですな。

武田 ワケミタマ、五弁の菊座というのは、人間の魂の中枢と考えていいわけですか?
金井 そう、それに対して肉体という衣は、地球の主である魔王さんからの借り物なんです。

それでね、自分のワケミタマをいただいた親神を見つけ、ワケミタマに応じた自分の使命を自覚して、自已完成した者 ------ これをミコトモチと言うんですが、そうなると死んで肉体の殻を抜け出して、あのゴッホのように、高天原へ直行して永遠の存在になれるんです。といっても、まあ、こんな直行組は、一世紀に五、六人も出ればいいところですナ。たいがいの人間は死ねば霊界送りです。
筑糸 なるほど。 

金井 これは、神と魔王の契約なんです。地球の主である魔王とその配下の者たちは、人間が死んで四九日たつと、魂の中枢であるワケミタマをくりぬいて、料理して食べる ------ 神とのそういう約束になってるんです。
 それでワケミタマをくりぬいて食べちまうと、魂の外皮は不要なので、生きていたときの潜在意識つきで霊界送りになる。霊界、幽界、冥界、これらはすべて東京都の夢の島みたいなもので、要はゴミ捨て場なんです。

武田 霊界から、再びこの世に転生するということは?
金井 もう魂をくりぬかれて霊界へ廃棄されてしまえば、神といえども、もう一度菊座を与えることはできないんでね、この世に生まれかわるなんてことは金輪際ないわけだ。輪廻転生なんていうのは、真っ赤な嘘です。
武田 なかなか厳しいもんですね。

金井 ハァ、神からもらったワケミタマを自覚して、魂にしめり気を与え、芽を出して生長し、花を咲かせて光芒燦然と輝いているのは、魔王界にとっては毒物中の毒物なんで、絶対に食糧にはならない。さっさと肉体の衣を魔王に返して、魂は高天原へ直行するわけですが、こんな例はさっきも言ったように、残念ながらごく少ないんですな。

 じゃあ、しめり気があって芽を出しかけてる魂、花を咲かせるところまでは行かないがツボミくらいは持っている魂はどうなるのかというと、これはカサラギ神の主宰する仏界に行くんです。このカサラギ神のことを仏教では阿弥陀と言っております。

 また、極貧の家庭などに生まれ、生きているうちは尊い教えとか教育や勉学のチャンスに恵まれず、本人の責任ではないのに社会の底辺でウジ虫のように生きておった者が、死んでから阿弥陀の教えを受けて、ワケミタマにしめり気が出たら、やはり仏界に行くことができる。

 仏界へ入って、そこで修行して精進すれば、やがて高天原の神界へ行くこともできるんですな。シャカは、この世における敗者が、その死後において立派に復活できることを説いたんで、決して何度も人生があることを説いたわけじゃない。

武田 つまり、仏教というのは敗者復活の教えですね。
金井 そう。カサラギ神界というのは、副次的なものなんです。このサブをメインにすれば、まず救いはない。
武田 追試や補欠入学を前提に、入学試験を受けるようなもんですね。

金井 はい。ましてや、あとから加えられた大乗空論。まったく仏教の行くところ、すべてが「空」か「無」になってしまいます。
 だいたい、この世の敗者どころか天皇の位に生まれながら、頭を丸めて敗者復活の仏教に帰依したなど、神道をないがしろにするにもほどがある。

まったく、貴族階級や生活に恵まれた者たちの仏教帰依、あるいは高僧や名僧といわれる者たちの言動や記録を見れば、狂っているの一語につきますよ。狂いは狂いの輪廻をくり返し、今日でも何不自由なく生活しているのに、生きているうちから仏教に帰依している愚か者がいる。これはもう、魔界へ食糧を提供していること以外の何物でもない。

 それから、霊界の住人どもが、この世の生きた人間に憑いていわゆる指導霊・支配霊・守護霊・背後霊などになっているんだが、ウッカリこんなのに関わり合って指導や守護を受けていた日には、自分もやがて神からのワケミタマをくりぬかれることは必定です。

 とくに昨今ひどいのは、日本における霊界研究のあり方です。亡霊があの世から来てこの世の霊媒に憑いてその潜在意識をしゃべると、転生すなわち生まれかわりと解釈しているんだ。心霊科学的に指導霊とでもしておけばいいものを……ともかく、この頃の日本では、生きている人間が節度を失って、あの世までを攪乱しようとしている。恐ろしいことです。

武田 その、生きているうちに、魂をくりぬかれるということはないんですか?
金井 あるとも。剌身みたいにね、生きている人間の魂を調理して食べるとおいしいことに魔界でも気付きはじめ、その結果、神のワケミタマを生きながらにしてくりぬかれてしまっている、〈生き精霊(しょうりょう)〉がのさばり出している。いわゆる霊媒のなかには、この〈生き精霊〉のケースが少なくない。

でも、これらはけっこう商売繁昌してるんです。病気治しだってできるんだから。病気よりも強い魔を憑ければ、病気の症状はストップしますからね。

 しかも、神様が懸ってご託宣を述べることもある。ただし、本当の神様じゃない。霊界の住人が勝手に神界の神の名前を語るんです。
武田 それを見わける方法は?
金井 よくよく霊視すれば、神の象徴である菊座がないんでね、ニセ神であることがすぐバレますわな。ニセ如来、ニセ菩薩にも同じように、仏界の象徴である蓮座がありません。


         ◇


武田 金井先生は、一人一宗と申しますか、個々人の親神ということを、たいへん重視されるわけですが、一般の人に、お前は何神様のワケミタマかと聞いて、答えられる人はまずいないんじゃないでしょうか? 親神の見つけ方というか、つき合い方というのを具体的に……。

金井 「親神とつながる」ということと、「ワケミタマを知る」ということは、かなりレベルのちがう問題なんです。親神とつながるということは、神様会社に入社してミコトモチになるということですからね、親神の声を聞けるようになるというのが最低条件です。

ここまで行くのは、神様一辺倒のそれは厳しい道です。餓えたときに食物を求めるが如くに、神理を求めてやまない餓鬼道を通り、神理を得るためには牛馬が重い荷を運ばされても何らの不平不満を言わずに黙々と歩むが如くに、堅忍不抜の畜生道も通りぬけ、そして我こそ神理の彼岸にさきがけんと修羅道を邁進して、なお彼方の神理を求めて進まなきゃなりませんからな。

 これに対して「ワケミタマを知る」ということは、商単に言うと自分の本性を知るという段階だから、これは誰でもその気になれば出来ることです。この段階じゃ、別に神様の名称なんてどうでもいいんです。要は自己発見ですから。

 たとえば久久能知(ククノチ)系 ------ 久久能知命というのは、『古事記』では木の神になってますが、本当は知恵を司る神様で、このワケミタマにとっては、本を読んだり、新しい知識を求めたり、何か研究することがちっとも苦痛にならないんですな。

 これに対して、ちょっと分厚い、硬い内容の本を読ませようもんなら、一頁も開かないうちに眠くなっちゃう、いい睡眠薬になるなんていうのは、手力雄(タヂカラオ)系です。手力雄命というのは、天の岩戸をこじあけた強力の神ですから、このミタマの人間はスポーツや格闘技、大学でいうなら体育大学向きなんです。

 で、まあ言えることは、どうせ一回こっきりしかない人生です。くだらない社会通念や常識にしばられずに自分の本当にやりたいこと、本当に生きがいを感じられることをおやりなさい、ということです。それが新しい神道の理念にもとづく惟神(かんながら)生活と言えましょう。

 でもね、この「自己の欲する所をなせ」という道でもね、徹底的に打ちこみ、邁進すれば、親神とつながるところまで行ける可能性はあるんです。職業、技能を通じて神と通じることがあるんですね。ゴッホなんか好い例です。それから、まだそこまでトテモトテモですが、プロレスのブッチャー、あれは格關技を通じて行をやってる男です、あの人は。

 

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金井南龍ほか著『神々の黙示録』徳間書店、1980年。より